だけど──
映画の中で、物語の隙間で、あるいは祖父の記憶の中で、たばこは美しい“象徴”として、いまも静かに存在している。
今回は、そんな“煙”が人類の文化とどんなふうに結びついてきたのかを、少しだけ掘ってみたいと思います。
映画とたばこ──“間”を演出する煙
たばこが最も印象的に使われるのは、やはり映画かもしれません。
『コンスタンティン』
たばこをくゆらせながら悪魔を祓いをするコンスタンティンはかっこいい。しかし、そのたばこが彼の命を蝕んでいる。生きることににも命が終わることにも絶望している彼にはたばこが必要だったのだろう。
『ファイトクラブ』
品行方正(?)なある男が、映画の終わり頃にはくわえ煙草で仕事をする。彼の中の「あるスイッチ」がオンになったのが分かる。
『レザボア・ドッグス』
ダイナーの円卓でたばこを吸いながら「全くの無駄話」をする男達。この画でたばこは、場の雰囲気作りに貢献している。この面子で「たばこなし」はナシ。
共通しているのは、煙がセリフの代わりに感情を語っているということ。
たばこは「感情と情景を伝える装置」だったのです。
小説とたばこ──リズムと孤独
たばこは小説の中でも、しばしば登場人物の“間”を表現するために描かれます。
たとえば村上春樹。
彼の小説では、登場人物が静かにたばこを吸う場面がよく出てきます。
それは、語られない感情や距離感を“煙”で表現しているようでもあります。
また、ハードボイルド小説──レイモンド・チャンドラーやヘミングウェイの世界でも、たばこは「沈黙の美学」を象徴するツールとして機能しています。
一富士、二鷹、三なすび、四扇、五たばこ?
江戸時代の一部地域では、こんな言い伝えがあったとされます。
一富士、二鷹、三なすび、四扇、五たばこ、六座頭(ざとう)
火を使うことは「厄を払う」意味もあり、煙は「悪い気を祓う」ものとされていたそうです。
実際、当時の着物や煙草入れには“縁起物”としての意匠が施されているものもあります。
たばこは単なる嗜好品ではなく、信仰や風習と結びついた文化の道具でもあったのです。
道具に宿る文化──キセル、マッチ、パイプ…
喫煙にまつわる道具の世界もまた、深くて面白い。
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江戸時代のキセルと煙草入れ(革や組紐で装飾された携帯美)
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戦後昭和のマッチ広告(銭湯や飲み屋のデザイン文化)
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欧米の映画で印象的なパイプや火打ち石の所作美
喫煙という行為は、所作と道具の文化でもありました。
静かな身振りの中に、思想や美意識が潜んでいたのです。
煙と人類──儀式としての“くゆらせる”という行為
もっと歴史をさかのぼれば、たばこは儀式の道具でもありました。
ネイティブアメリカンにとっての“ピースパイプ”は、煙を天に返し、神と語るためのものでした。
煙を通して、「人と自然」「人と人」とをつなぐ神聖なものとされていたのです。
現代の喫煙者がベランダで静かに一服する姿にも、
もしかしたら、そういった“祈りの名残”が含まれているのかもしれません。
結びに──煙の向こうにある、人間らしさ
いまはもう吸っていないけれど、
たばこの煙のゆらぎには、どこか人間らしさが残っていると感じます。
たばこを推奨するつもりはない。
でも、文化としてのたばこには、
否応なく惹かれる静けさと余白があった。
それはきっと、言葉では語りきれない私たちの“内側”を、煙が代わりに表してくれていたからなのかもしれません。