その中に出てくる印象的な人物がいます。彼女の名はドーラ。
ドーラは、マダムというより漫画太郎先生の描く女性にルックスは寄っていて、幼き頃の私は心の中で「ババア!!」とシャウトしたのをよく覚えております。この人は乗り物、暗号帳、重火器、とにかくいろんなツールを使いこなすスーパーレディですが、中でもひときわ印象的に描かれているのが『東洋の計算機』のくだりです。
このシーンの描写を見るとすぐに分かるのですがこれはそろばん(算盤)を指しています。産業革命期ヨーロッパのような世界観。19世期後半ごろでしょうか?まだとても電卓は発明されていなさそうです。
もしあったとしても、初期の電卓は20キロほどあったそうでとても片手で持ってもう一方でキーを弾く軽量な板とまではいきません。
この世界でそろばんは魔法のように四則演算の答えが出せる道具という位置付けで、ラピュタの世界観でそろばんが魔法のようなアイテムだったことは想像に難くありません。
しかし電卓、PC、スマホ、代替品が数多くある現代ではどうなのでしょう。
実は私、子供の頃にそろばんを習っていました。体験からその価値についてお話ししたいと思います。
時は昭和、私は8歳。小学校一年生の頃はとにかく計算が遅く、算数の授業ではもちろんおちこぼれでした。
もっと早く計算できるようになりなさいと小学校教諭に言われますが、どうしてあんなに早く答えを出せる子達がいるのかさっぱりわかりませんでした。
そんな小学生の夢は友達と同じ塾へ通うこと。それがそろばん塾でした。首尾良く通える手はずは整ったのですが、罠が待ち構えていたのです。この塾は地域でも有名な厳しい塾だったのです。
その後友人はすぐに塾をやめてしまい、徐々に目論見はくずれていきます。厳しさのあまり私もやめたいと何度も言おうとしたのですが、先生を目の前にすると怖気付いて致し方なく小学校卒業まで通うことになってしまいました。
最終的に5年間も習っていたので良く分かるのですが、そろばんをパチパチ弾いている彼らは足したり引いたりする時にいちいちロジックを思い浮かべながら計算はしていません。
最初は確かに『足せない2は、8を引いて10を足す』という呪文を聞きながら所作を習いますが、なぜ8を引くのか、そのあと10を足すのか理屈は多くの子がわからないまま計算をします。これは学校の授業と大きく異なる点です。
そろばんは論理的思考力を養う種類の学習ではありません。どちらかというとスポーツや楽器の練習に似ていて、上達の基礎にはフィジカルな反復練習が必須です。もっというと反復練習だけで誰でもそこそこ早く正確な計算ができるようになります。まさに「習うより慣れろ」という昭和チックな思想です。
これのどこが良いところなのか?
先述の「慣れろ」の下りなんて、本当にスマートな学習には思えません。しかし私の学業年代記を書くとしたら、明らかにそろばん期以前と以降に分けられます。あれほど苦戦していた算数は『そろばん獄門島』のブートキャンプを経て困ることも注意されることも無くなっていました。
実は一番大事だったのは、早く計算ができるようになったことよりも「理屈の理解は後でもいい場合がある」ことを知ったことだったと思っています。
分からないところで立ち止まって理解できるようになることは大事ですし、尊いことです。しかしなぜか言われた通りにすると答えが出るを繰り返すうちに、後になって動作の理屈や理由がわかることがあるのです。その作業と結果とロジックが一致した瞬間の感情を表すならば「ああ、そうだったのか!」。ひらめきであり、気づきです(アハ体験というのかも)。
長い時間を経た今はっきり言えます。多分大事な経験でした。たとえどんなに塾の先生がドーラにそっくりで怖かったとしても。