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十牛図第2.5回:絵巻に描かれた“チルタイム”の変遷── 自転車に乗って“帰る”という禅

かつて、牛に乗って帰った者がいた。 山を越え、川を渡り、草を食む牛の背でゆっくりと、静かに。

いま、私はクロスバイクに乗って、夕暮れの坂をくだる。
耳元をすり抜ける風が、どこかで聞いた鈴の音のように感じられる。


モヤモヤを運ぶ“牛”という乗り物

十牛図において、牛は「心」の象徴だといわれています。
でもそれは、静かに座禅を組んでいるような心ではなく──

  • 逃げまわる欲望
  • 繰り返す怒り
  • 他人からの評価に縛られる心
  • 沼にハマって抜け出せない習慣や依存

そんな“モヤモヤ”の塊。
だからこそ、手綱をつけ、背中にまたがり、共に「帰る」ことに意味があるのです。
十牛図が生まれた宋の時代、中国ではこれを「牛」として描いた。
では、現代だったら?


現代人の“牛”は何に乗っている?

成長と共に、私たちの乗り物は変わっていく。

  • 三輪車
  • 竹馬
  • 自転車
  • バイク
  • キックボード

私自身はもっぱら「自転車」と「車」。
乗っていると、気分がよくなるし、時に乗り物と一体化したような錯覚すら覚える。

でも、油断すると牙をむく。

自転車に踏まれた生食パン

ある日、私はお気に入りの「生食パン」を買って、意気揚々と帰宅中。

急ブレーキをかけた拍子に転倒。
荷台から飛び出したパンを、自分の前輪でぐしゃっと踏みました。

💸 車のボディに10万円の穴

別の日には、車を端に寄せすぎて、見えていなかった鉄パイプにガツン。

あけてしまった穴の修理代は、まさかの10万円超え。


禅は、静かさの中だけにあるわけじゃない

牛でも、自転車でも、車でも、
「心を運ぶ乗り物」は、うまくいけば快適。
だけど、油断すると取り返しのつかない事故を起こす。

だからこそ、共に“帰る”ことに意味がある。

走りながら、人生のいろんな“自分”と出会う
今の私の横を、かつての「私」が通り過ぎていく。


転びながら走った補助輪つきの三輪車
雨の中、立ちこぎして帰った中学生の通学路
帰りたくなくて、わざと遠回りした夜の道

どの道も、「牛」に乗って歩いていたんだと思うと、妙にしっくりくる。
そして、そんな記憶たちが、いまの自分と並走しているような感覚がある。


十牛図と私の“チルタイム”

十牛図を初めて知ったのは約20年前。
以来、私のなかでは、ずっと続いている研究対象のような存在です。
第六図「騎牛帰家」の姿は、どこか今の自分にも重なる。

現代において「チルする」とは、どんな行為なのだろう?
「禅」とは、座って無になることだけではない。
日常の中で“モヤモヤ”と付き合いながら、ちょっとずつ手懐けていく。
そんなプロセスそのものが、“騎牛”なのかもしれません。


おわりに

牛ではなく、自転車に乗って。
でも同じように、ゆっくりと、風に耳を澄ませながら。

日々を“帰る”行為にしていく。

相変わらず自転車も車も運転ヘタだけど。何とか家に帰っている。