いま、私はクロスバイクに乗って、夕暮れの坂をくだる。 耳元をすり抜ける風が、どこかで聞いた鈴の音のように感じられる。
モヤモヤを運ぶ“牛”という乗り物
十牛図において、牛は「心」の象徴だといわれています。 でもそれは、静かに座禅を組んでいるような心ではなく──
- 逃げまわる欲望
- 繰り返す怒り
- 他人からの評価に縛られる心
- 沼にハマって抜け出せない習慣や依存
そんな“モヤモヤ”の塊。
だからこそ、手綱をつけ、背中にまたがり、共に「帰る」ことに意味があるのです。
十牛図が生まれた宋の時代、中国ではこれを「牛」として描いた。
では、現代だったら?
現代人の“牛”は何に乗っている?
成長と共に、私たちの乗り物は変わっていく。
- 三輪車
- 竹馬
- 自転車
- バイク
- キックボード
- 車
私自身はもっぱら「自転車」と「車」。
乗っていると、気分がよくなるし、時に乗り物と一体化したような錯覚すら覚える。
でも、油断すると牙をむく。
自転車に踏まれた生食パン
ある日、私はお気に入りの「生食パン」を買って、意気揚々と帰宅中。
急ブレーキをかけた拍子に転倒。
荷台から飛び出したパンを、自分の前輪でぐしゃっと踏みました。
💸 車のボディに10万円の穴
別の日には、車を端に寄せすぎて、見えていなかった鉄パイプにガツン。
あけてしまった穴の修理代は、まさかの10万円超え。
禅は、静かさの中だけにあるわけじゃない
牛でも、自転車でも、車でも、 「心を運ぶ乗り物」は、うまくいけば快適。 だけど、油断すると取り返しのつかない事故を起こす。
だからこそ、共に“帰る”ことに意味がある。
走りながら、人生のいろんな“自分”と出会う
今の私の横を、かつての「私」が通り過ぎていく。
転びながら走った補助輪つきの三輪車
雨の中、立ちこぎして帰った中学生の通学路
帰りたくなくて、わざと遠回りした夜の道
どの道も、「牛」に乗って歩いていたんだと思うと、妙にしっくりくる。 そして、そんな記憶たちが、いまの自分と並走しているような感覚がある。
十牛図と私の“チルタイム”
十牛図を初めて知ったのは約20年前。 以来、私のなかでは、ずっと続いている研究対象のような存在です。 第六図「騎牛帰家」の姿は、どこか今の自分にも重なる。
現代において「チルする」とは、どんな行為なのだろう? 「禅」とは、座って無になることだけではない。 日常の中で“モヤモヤ”と付き合いながら、ちょっとずつ手懐けていく。 そんなプロセスそのものが、“騎牛”なのかもしれません。
おわりに
牛ではなく、自転車に乗って。
でも同じように、ゆっくりと、風に耳を澄ませながら。
日々を“帰る”行為にしていく。
相変わらず自転車も車も運転ヘタだけど。何とか家に帰っている。