カメラとわたし
今の私は、多くの人と同じように、もっぱらスマホがメイン機種になりました。
けれど、防湿庫の中で眠るカメラたちは、今も私の人生の証人なんです(前述のEstherのこともあるしね)。
K-05、K-01、Q-10、そしてK-1。
それぞれのシャッター音が、その時代の空気を思い出させてくます。
スマホでは撮れない色、空気、温度。それを写すために、今も私はときどき一眼レフを持ち出しています。
写真は現実を残すものではなく、「その瞬間、そこにいた自分」を記録するもの。
カメラは、いつの間にか私の友達になっていました。
一人だけの写真集
今は少し、写真から派生した別の楽しみもあります。
テーマを決めて写真を選び、本を作ること。
最初は、好きなフィギュアを題材にした小さなパロディ絵本でした。
けれど、ふとflickr時代の写真をまとめてみたくなり、自分だけの写真集を作ってみました。
発行部数1部、読者は私ひとり。
随分孤独な写真集。
印刷されたページを手にしたとき、全米は泣かないけど全私は泣きました!!
そこに並んでいるのは、世界中の人たちと出会った“光”の記録だからです。
面倒で、楽しくて、かけがえのないこと
今はAIや画像加工の技術が発達し、一眼レフの「一発撮り」で良い写真を撮る意味は以前より薄くなったのかもしれません。
でも、私は思います。
写真はプロセスを楽しむ趣味だと。
小遣いを貯めてカメラを買い、
夜な夜なオークションでレンズを探し、
前日からバッテリーを充電し、
重い機材を背負って旅に出て、
そして帰宅後、暗い部屋で現像する。
――もう、本当に面倒でしかたないです。しかし、撮っている本人にとっては、それがたまらなく楽しいのです。
あとがき
カメラは、私に光の見方を教えてくれました。
どんなに時代が変わっても、あのときカメラを通して見た“光”は消えないと思っているのです。
完──
「光の記録」シリーズを読んでくださった皆さまへ。
静かな光が届きますように。


