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🌀 牛も人も消えた、そのあとで──ふくよかさんと市井の文具屋の話

牛を探す旅は、最後、とても不思議な形で終わる。

十牛図の第八図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」では、牛も人もいなくなる。

そして第十図「入廛垂手(にってんすいしゅ)」では、ふくよかになった人物が、静かに市井(しせい)に戻り、誰かにそっと手を差し伸べている。

私はこの結末が、ずっと頭から離れない。


🐄 衝撃の「人牛倶忘」

ここまで牛を探して、やっと見つけて、飼いならして、ようやく安定してきたと思ったら──いきなり、牛がいなくなる。
だけじゃない。なんと、「人」までいなくなる。
八番目の図では、ただ風景だけが描かれている。

「牛はどこ!?」「というか、主人公どこいった!?」

最初はとても戸惑った。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。

これはたぶん、“私とそれ以外”という区別が、ふっと溶けてしまった瞬間なのだと思う。
自分という輪郭も、コントロールしたい欲望も、どちらも抱え込まず、否定もせず、ただ手放す。

それは喪失じゃなくて、還元だ。
牛が、山に還っただけ。
人が、世界に還っただけ。


☕ 「ふくよかさん」の正体

十番目の図「入廛垂手」には、ふくよかな人物が登場する。
この人が、最初に牛を探していたあの少年と“同一人物”だと言われても、

私はまだちょっと信じられない。

でも、たしかに旅を終えたその姿には、あたたかさがある。
「さあ、手を取りましょう」とでも言うように、ゆっくりと、さりげなく手を差し出している。

私はこの人のことを、勝手に「ふくよかさん」と呼んでいる。
ふくよかさんは、おそらく何者かになろうとはしていない。

でも、そこにいるだけで誰かが救われる。
しゃべりすぎず、教えすぎず、でも誰にも閉じていない。

きっと、「ただいま」が自然に言える人なのだ。


🖋 文具屋の「市井へ戻る」

私は、文具屋だ。
文房具を仕入れて、並べて、売るのが仕事。
でもほんとうは、もっと別の役割を果たしていると思っている。

それは、売った文房具で、お客様が世界とつながる手伝いをすること。
手紙を書く、日記をつける、仕事を進める、夢を描く……

文具はあくまで“媒体”であって、私たちはお客様の「成果」をそっとフックアップする仲介者なのだと思う。
それがきっと、十牛図でいう“市井へ戻る”こと。

誰かの目標を邪魔せず、過剰に主張せず、でもちゃんと傍にいる。


💭 そして、私もまた旅の途中にいる

正直に言えば、私は最初、
「自分が認められたい」という気持ちが強かった。

バイヤーとして、
設計者として、
店舗プロデューサーとして。

評価されたい。「あなたのおかげ」と言われたい。そういう気持ちがあった。

でも今は少しずつ変わってきた。
誰かが、自分の道具を使って世界とつながっている。
その現場に、私はそっと居合わせていたい。
そう思うようになったのは、

たぶん「ふくよかさん」を見たからだと思う。


🐃 いつか、「ただいま」と言えるように

私はまだ「返本還源」には至っていない。
「ただいま」が自然に言える境地には、きっとまだ遠い。

でも、牛を探しながら、少しずつ、牛のいない風景を愛せるようになってきた。
いつか自分も、「ただの風景」になれるだろうか。
あるいは、「ただそこにいてくれるふくよかさん」になれるだろうか。

そんな想いを、文房具とともに、今日もそっと棚に並べている。