デジタル全盛の時代に、なぜノートを書くのか?
西暦2000年頃のIT革命を経て、何年か前にはDXなんていう言葉まで登場したのに、文具屋の私はまだノートを売っています。ノートじゃなければいけない理由を文具屋は考えずに来ました。いや、どちらかというと無くなったら困るというスタンスで、良いところだけにアプローチしてきた気がします。
でも今、もっとフラットに「本当にその価値があるのか」「あるとしたら何なのか」を考えてみたいのですスマホやPCで、瞬時にメモが取れる時代です。検索もコピペもできて、クラウドに保存すれば、どこからでも呼び出せる便利さがあります。
それでも私たちは、なぜ「ノートに書く」という行為をやめないのでしょうか?
答えはシンプルです。
ノートに書くことは、「考えを物質化する」行為だからです。
書くことで“考え”は初めて「形」になる
人間の思考って、けっこうふわふわしていて曖昧です。頭の中では完璧にまとまっているつもりでも、いざ口に出そうとすると上手く言葉にならなかったりしますよね。
ノートに書くという行為は、そのぼんやりした「考え」を、物理的にこの世界に存在させる行為なんです。
書きながら考える。
手を動かしながら、自分の思考と向き合う。
そのプロセスに、ノートならではの意味があります。
タイピングできないカオスを受け止めるレガシーツール
そもそも、人間の考えって最初はカオスなんです。
言葉にもならないモヤモヤや、形にならない違和感。それをいきなりタイピングするのって、難しくないですか?
ノートは、その「カオスなスタート地点」を受け止めてくれるツールです。
枠にとらわれず、雑に書いてもいいし、ぐちゃぐちゃでも許してくれる。そんな懐の深さが、ノートにはあります。
いわばノートは、古くて新しい「レガシーツール」。
デジタルツールが得意とする“整った情報”ではなく、整っていない“考えのカケラ”を受け止める場所なのです。
体を動かすことが、記憶を固定化する
最新の脳科学では、**「小脳を動かすことで、読んだこと・見たことが記憶に定着しやすくなる」**と言われています。
つまり、手を動かしながら書くという行為そのものが、「思考と記憶を深く結びつけるスイッチ」なんですね。
タップやフリックではなく、「書く」という複雑な動作が脳に与える刺激は別格です。
ノートに書いたことが、デジタルメモよりも強く心に残る理由はここにあります。
めくることで偶然に出会う「セレンディピティ」
ノートには、デジタルデバイスでは得られない「めくる楽しさ」があります。
ふとした時に過去のページをめくってみると、
- 数ヶ月前の悩みが書いてあったり、
- 忘れていたアイディアが蘇ったり、
- 思わぬ気づきに出会ったりする。
この偶然の出会い=セレンディピティは、ノート特有のものです。
クラウド検索では呼び出せない「思いがけない自分」との再会が、ノートにはあります。
おわりに
世の中には、スマホやPCのメモ機能で十分にノートの役割を果たしている人もたくさんいます。それはそれで素晴らしいことだと思います。
でも、私のように「最初の疑問が日本語にもならない」「モヤモヤをそのまま受け止めたい」という人には、ノートという道具がとても合っていると感じています。
使わなくても困らない人もいるけれど、“使った方がラクになる人”が確実にいる。
ノートは、そういう人のための道具であり続けてほしいし、私はこれからもノートを売り続けたいと思っています。
書くことで、考えは形になります。
手を動かすことで、記憶は自分のものになります。
めくることで、未来の自分に再会します。
だから私たちは、これからもノートを書くんです。