1.紙の伝来:文明は「書く器」を得た
紙という素材は、中国で2世紀ごろに発明され(蔡倫の改良が有名)、やがてシルクロードを通じてイスラム世界へと伝わり、11〜12世紀頃、ようやくヨーロッパに到達します。
この「紙の西遅東早」は文化にも大きな差を生みました。ヨーロッパでは羊皮紙やパピルスの使用が長く続き、紙は贅沢品。一方、アジアでは7世紀初頭に高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙・筆・墨を日本へ伝えたことで、“書く文化”が早期に発展していきます。
紙が安価で手に入る世界では、人々はメモし、写し、綴じ、保存する術を身につけていきました。
また、教育スタイルにも違いが見られます。ヨーロッパではディスカッションや記憶術を中心としたゼミナール形式の学びが発展し、アジアでは「書く・読む」という学習方法が早くから定着していたと考えられます。
2.ノートの発明はいつ?:バラバラの紙を一冊にするという発明
「ノート(Notebook)」の語源は、“Note(メモ)を綴じる本”という素直なものです。
誰が最初にノートを発明したかは定かではありませんが、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチが描き残したスケッチ集は、まさに「ノートブック」と呼ぶにふさわしい存在です。彼は観察や思索、絵と文字を1冊にまとめて記録していました。
また、中世ヨーロッパでは修道士たちが使用していた帳面や、後に登場する「コモンプレイス・ブック」(引用帳)も、現在のノートとよく似た機能を持っていました。
3.日本でのノートあけぼの:帳簿から学習へ
日本においてノートに近い存在が現れるのは江戸時代後期。とはいえ当初は商人や僧侶が使う「帳簿」や「写本」としての役割が主流でした。
近代的な学習ノートが普及し始めたのは、明治維新後の学制改革(1872年〜)によって全国の小学校に勉強が導入されたことが契機です。最初は和紙を折って綴じた簡易な帳面でしたが、次第に洋式ノートが登場します。
明治時代、東京帝国大学の学生たちが使っていたノートは、大学前にあった文具店「松屋」の製品だったとされています(田中経人『文具の歴史』リヒト刊 P129)。
4.大学ノートの登場:現代ノート文化の原型
やがて20世紀初頭には、日本の文具メーカーが本格的にノート製造を開始します。1902年創業のコクヨは、その代表格。「大学ノート」という製品名は、東京帝国大学で使われていた松屋のノートに由来するとも言われています。
特に注目すべきは「丸善の大学ノート」です。大正末期〜昭和初期から大東亜戦争期まで販売されており、用紙にはイギリス製の高級輸入紙「フールス紙」が使われていました。
田中経人氏によると、判型には相判(約33×23cm)・中判・大判の3種、綴じは二帖・三帖・四帖と多様なバリエーションが存在し、罫線も複数あったとのこと(『文具の歴史』P130)。つまり、現代のノート以上に多彩で、選択の自由に満ちていたのです。
フールス紙の使用からも分かるように、当時のノートは高級品でした。昭和戦後期になると、国産製紙の品質が向上し、ノートは徐々に国産紙へと切り替わっていきます。
この書籍が出版された1972年当時の主要ノートメーカーは、「コクヨ株式会社」「極東ノート株式会社(現・日本ノート株式会社)」「日章株式会社(旧アピカ、現・日本ノート株式会社)」。
現在、極東ノートと日章は合併し、日本ノート株式会社として続いています(出典:https://www.nippon-note.co.jp/company/history/
ノートとは、紙と記録をつなぐ「文化の器」である。
書くことで、人は自分の思考と対話してきた。
そんなノートの進化は、まさに「書く文化の進化」でもあるのだ。
▶️ 次回予告|第二回:ノートの形式と進化
次回は、現代のノートに受け継がれる「形式」の進化をたどります。
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罫線の種類:横罫・方眼・無地・ドット…その違いと用途
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主なサイズ:B5・A5・セミB5などの規格と文化的背景
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紙質:上質紙・再生紙・万年筆対応紙などのこだわり
お楽しみに。